追加料金のプレッシャーによる先読みマップレイアウト

 メダロット1~4までに出てくるマップ(全体マップも含む)レイアウトは全て私が作成していました。
 メダロット1の時は自分でレイアウトしたものを自分で描く、という手順でしたので、シナリオ→レイアウト→イベント配置→修正という手順が非常にスムーズで、修正はいくらでもやりたい放題でした。
 シナリオやイベントに合わせて、マップレイアウトやドット絵を私の一存で自在に変えられたのです。
 何より、修正を人に依頼する必要がないので気が楽でした。
 これはメダロット1が少人数の小規模プロジェクトだったからこそ、できたと言えます。

 メダロット2になると、プロジェクトの拡大と共に開発に関わるスタッフの人数が増えました。
 メダロット2以降、私はグラフィックではなくなりましたが、マップレイアウトは変わらずシナリオを担当する私が全て作成することとなりました。
 ですがメダロット1の頃とは違い、グラフィックは他のグラフィッカーさんにお願いしている状態です。ですので、マップレイアウトを提出後に修正がしたくなった場合、再提出してドット絵を描き直していただかねばならなくなったのです。
 さらにオフィス移転で階が分かれ、かつてはチームメンバーだったグラフィッカーさんたちが別会社の方になりました。
 グラフィックは基本的に、全て外注になったのです。

 会社が分かれる前と違って、 メールでのやり取りの他、 絵を依頼するのにお互い2Fと3Fを何度も往復する必要がありました。
 また、別料金発生ということでチームメンバーの人月計算とは別にメダロット数、マップ数、システム画面、マップ上を歩くコマキャラ数×パターン数等々、 依頼するグラフィックを全てリスト作成し、料金を計算するという仕事も発生しました。

 それまでグラフィッカーさんは私と同じ給料制だったのが、グラフィックは「一枚(個)いくら」になったのです。
 当然ながらグラフィッカーさんに非が無い、こちらの都合による修正に関しては、全て追加料金が発生します。
 これはグラフィッカーさんがチームメンバーだった時は、なかったことです。
 こうしてメダロット2以降、他のグラフィッカーさんに修正依頼がし辛い理由が「申し訳ない」というものから「追加料金発生」という理由に変わり、ますます気軽に修正依頼ができなくなったのです。

……余談ですが、メダロット1の後に開発された野球ゲームで、メダロット1のプログラマー、北玉さんが別会社のグラフィッカーさんたちではなく私にドット絵をお願いしてきたのは、 開発費削減のためと思われます。
 超小規模プロジェクトだったため、少しでも開発費を節約しなければいけなかったのでしょう。
 私が仕事を山ほど抱えていることは北玉さんもご存じでしたので、もの凄く申し訳なさそうにお願いされました。
 私としましては北玉さんにはメダロット1で大いにお世話になりましたし、北玉さんのお人柄もとても良かったので、快くお引き受けしたのでした。

 更に別件で、白玉くんからゲーム企画書の挿絵を描いてほしいと頼まれたこともありました。
 それは別料金発生防止策だったのは明らかでした。その時白玉くんも北玉さん同様、非常に申し訳なさそうにお願いしてきましたが、私は結構ごねました。
 超小規模プロジェクトとはいえ、北玉さんのご依頼は一つのゲーム丸ごとのドット絵です。お引き受けしたとして、給料制の私には基本的に金銭的なメリットはありません。
 それに比べて、白玉くんが頼んできたのは一企画書の挿絵です。北玉さんの方が遥かに大変なお仕事です。
 それなのに北玉さんの時と白玉くんの時で私の態度がこれほどまでに違ったのは、ご両者の日頃の行いによるものです。
 白玉くんの日頃の行い……具体的には、敵メダロット構成悲喜交々に書いたようなことです。それに加えて、私に頼んだ理由があからさま過ぎたあたりです。
 ですが懸命に頼み込む白玉くんの姿に、最終的には引き受けることにしました。
……結局白玉くんの企画はボツになっていましたが、私の絵のせいではないと信じたいです。引き受けたからには、私も力を尽くしました。

 話を戻しますが、私が作成したマップレイアウトが無ければグラフィッカーさんたちが絵を描くことができないので、当然ながら提出をせかされます。
 ゲーム開発が中盤~後半になってくると、まだ構築しきれていないシナリオ部分のレイアウトも先に作成し、提出しなければならなくなりました。
 ですので私は、シナリオの大枠ができた段階で「きっとこんな展開になるだろうから、こんな形のこんなマップが必要になるだろう」と予想し、「アタリ判定」「イベント発生位置」「コマキャラの動き」まで想定してマップレイアウトを作成していきました。
 そして修正がいらないよう、予想で作成したマップレイアウトに合わせて、シナリオとイベントを作成・配置していったのです(バイトの方々にも、イベント配置をマップに合わせていただきました)。
……メダロット2以降、ゲーム開発の中盤~後半はシナリオ・イベント作成とマップレイアウト作成の順番が、逆転してしまうことになったのでした。
 これは、マップレイアウトもマップ絵も自分で描いていたメダロット1の時にはなかったことです。
 メダロット1の時は、私が自分で描いたマップレイアウトを何度自分で修正しても、心苦しくもなく料金も発生しなかったのです。
 これがかなり厳しかったです。

 この方式で私は、2~4までほぼほぼマップレイアウトの修正なしで終わらせました。
 私の脳裏には常に、「追加料金発生」という言葉が深く刻み込まれておりました。
 普段はぼーっとしていることの多い私ですが、 この時ばかりは脳をフル稼働させ 、未来のシナリオの予想を元にしたマップレイアウトの作成をやり遂げたのです。
 それほどまでに、追加料金が発生する修正依頼をすることは、私の中で強いプレッシャーとなっておりました。
 締め切りがオーバーし、開発費がうなぎ上りとなっていく中、「追加料金発生」は全力で避けたかったのです。

 とは言えそれでも、自分で絵を描かなくてよくなったことは、本当にありがたかったです。
 様々なスキルを持つ方々のお力があってこその、メダロットでしたから。

6+

ゲーム業界に至るまでとメダロットシナリオのベース

 私が昔から一番好きだったことはシナリオを書くことだったのですが、シナリオ系学校は見つかりませんでした。
 なので次に好きだった絵を描く道を選び、美大進学に必要なデッサンを学ぶことにしました。
 絵を描くことは好きだった私ですが、デッサンは苦痛で仕方がありませんでした。
 デッサンを学び始める前の私は「好きな絵を描いて美大合格♪」などと軽く考えていましたが、やはりデッサンは勉強でした……。
 デッサン教室では数時間かけて、ひたすら与えられたモチーフを描いて描いて描き続けるのです。
 楽しんで描く方もいらっしゃるでしょうけども、私にはデッサンはただひたすらに苦行でした。
 それでもやらないことには、目指す美大には入れません。
 私は腰を据えて、高校の間みっちりデッサンを学び美術系短大に入りました。

 ですが美大入学はゴールではありません。問題はその先でした。
 ビジュアルデザイン科だったので当時は広告系がメジャーな就職先だったのですが、美大で私は自分のデザインセンスの無さを痛感していました。
 二年なんて、あっという間です。私は焦りました。
 そんな時、美大の求人掲示板にゲーム会社を見つけたのです。
 昔からずっとゲームが大好きだった私は、即座に「これだ!」と思いました。
 ゲーム会社の募集要項にシナリオライターの正社員募集はなかったので、グラフィッカーで応募しました。
 入社試験は一般試験とデッサン、カラーイラストの提出、そして面接でした。
 元々ゲーム業界を目指していたわけではありませんが(思いつかなかったので)、高校時代にしっかりデッサンを学んでいたことが役立ちました。
 面接の際、「あのデッサンはどこで学びましたか?」と質問されたので、やはりデッサンが大きなポイントになったのだろうと思っています。

 ところが入社後、私がメダロットのシナリオを担当したころに、先輩の事務のお姉様に「(入社試験に合格したのは)シナリオが書けるからだよ」と言われたのです。
 確かに私は履歴書に、「小説を雑誌に応募して二次選考までいった」ということを書いてはいました(お恥ずかしいのでソースはご容赦を。内容はともかく、ペンネームが完全に中二病でした)。
 ジャンルは人が乗り込むタイプの巨大ロボット物のSFでした。
 当時の私はサイバーパンク、ホラー、ファンタジー系が主食で、ロボットは畑違いだったはずなのですが、なぜかある時急にロボット物が書きたくなり、一気に書き上げて応募したのです。
 しかも応募したのは少女小説雑誌でした。それで二次選考までいったのは、なかなかのファンタジーだったかもしれません。
 少女小説雑誌だったことを考慮して、主人公は女の子にしていました。ロボットとかわいい女の子の組み合わせは昔から好きだったので、書いていて楽しかったです。

 そんな私は当時、ロボットアニメの中では「トップをねらえ!」が好きでした。 私は元々「トップをねらえ!」 の原点となったテニスアニメ「エースをねらえ!」が好きで、その影響もあって中学ではテニス部に所属していました。
 ですので、「エースをねらえ!」→「トップをねらえ!」→「ロボット物小説投稿」という流れは、自然な流れだったのかもしれません……?
 ちなみに 「エースをねらえ!」 の原作漫画は、入社後男性の先輩社員さんから愛蔵版をお借りして、読破しました。
 アニメはスポコン色が強かったですが、漫画は先輩が「人生のバイブル」とおっしゃっていただけのことはあって、涙なくしては読めないような深い人間ドラマが描かれておりました。不朽の名作だと思います。
 さらにそのロボット物の投稿小説は、当時読んだSF界の巨匠アーサー・C・クラーク著「銀河帝国の崩壊」という作品にも影響を受けていました。
 こちらはロボット物ではありませんでしたが、世界観に影響を受けております。「自分が知っていたのはごく狭い箱庭の世界で、外には驚くべき広い世界が広がっていた」といったストーリーです。
 他にも当時は、やはりSF界の巨匠アイザック・アシモフ著のロボット工学三原則を軸に描かれた「われはロボット」「ロボットの時代」。
 そして人間の刑事と相棒のロボットが活躍する「鋼鉄都市」シリーズ。
 さらに銀河帝国の興亡を描いた長編シリーズ「ファウンデーション」シリーズ等々を読んでおりました。
 今思えば私は入社前にして、すでにロボット物のメダロットのシナリオのベースはできていたのかもしれません。

 ロボット工学三原則を元にした、メダロット三原則は言わずもがなです。これはシンプルに、ロボット工学三原則の「ロボット」の部分を「メダロット」に変えたものです。
 そして私がアシモフ先生から影響を受けたのは、 ロボット工学三原則だけではありませんでした。
「鋼鉄都市」シリーズで、ロボットを嫌っていた人間の刑事と、まやかしの感情しかないはずのロボットの相棒との心の交流や信頼関係を結んでいく姿。
 それは私が描いたメダロットのシナリオの中で、メダロットとメダロッターの関係にも生かされました。
 ロボット物の投稿小説は短大時代に書いたのですが、当時はロボット物は私からすれば畑違いで、「どうして自分が急にロボット物の小説を書きたくなったのだろう?」と首を傾げていましたが、あながち畑違いではなかったように思えます。

 とはいえ入社試験に当たって提出した履歴書には、 投稿小説二次選考通過のことを自己申告で一文で書いていただけでした。どんな雑誌にどんな小説という詳細は、書いておりませんでした。
 ですので仮にそれが多少加点されていたとしても、入社試験合格の決め手にまではなっていなかったのではないかと思います。今となっては確かめる術もありませんが。

 そして一般試験には国英数があったのですが、数学に父親と三人の息子の年齢を計算で出す問題がありました。
 数字に弱すぎる私が特異な計算式で導き出した答えは、息子が父親の歳を越えてしまうというものだったので、少なくとも数学で入社できたのではないことだけは確かです。

……こうして私は、二十歳からゲーム業界に飛び込んだのです。

5+

とあるゲーム会社の女性社員事情

 ゲーム会社の入社試験の面接に臨んだ時、私はハッとしました。
(ひょっとして、女性社員がいないんじゃ……?)
 実際には入社当時、私以外の二名の先輩女性社員がいらっしゃったので、ホッとしたことを覚えています。
 それでも当初は、女性社員率が圧倒的に少ない男性の職場でどうなることかと思いました。
 ですが実際のところ、人間関係はとても楽でした。
 周囲が男性だと、人間関係のアレコレに気を煩わされることがほとんどなかったのです!
 お陰様で、仕事に集中することができました。

 思えば学生時代の私は、女子グループの独特な空気に馴染めず、孤立気味でした。
 高一にもなってグループ全員でトイレに行くとか、一人の秘密をグループ全員で共有しなければならないといったことが、私はどうにも受け入れ難かったのです。
 また私は高校時代美術部と漫研に掛け持ちで入っていたのですが、高二になって所属していない女子グループから、漫研というだけで「オタクきもい」など後ろ指をさされて嫌な思いをしたものです。
 ちなみに彼女たちは、私がどのような漫画が好きで、どのような漫画を描いていたのかなどは一切知りません。
 どうせ後ろ指をさすなら、せめてそういったことを知った上でさしていただきたいものです。

 ですがゲーム会社でアニメ・漫画・ゲームが好きだったからといって、後ろ指をさされるというのはまず考えられません。
 そして先輩の女性社員のお二人は優しくていい方たちで、とても良くしていただきました。
 学生時代と違い人間関係では悩まずに済み、チームメンバーに恵まれたことが、私が数々のデスマーチを乗り切れた一つの大きな理由であったことは間違いありません。
 いくつか会社を渡り歩いてきていた方によりますと、女性だけのチームは人間関係がドロドロだったそうです。

 もちろん一概に全てそうだとは言い切れないでしょうけれども、私の経験から鑑みても、女性のみで構成されたグループというのは、得てしてそういったトラブルが多く見受けられるように思えます。
 いわゆる「女性らしさ」は良い方向に向けば気配りや気遣いという形で現れ、悪い方向に向けばグループ意識が強くなりすぎたり陰湿さが表面化するのかもしれません。
 良くも悪くも私は、男性ばかりの職場に飛び込む辺りからしても、女性らしさの要素がだいぶ薄めなのではないかと思います。
 私の友人は女性ばかりなのですが、昔からの友人には「あんたは気が利かない」などと、よく言われていました。

 そういうわけで幸いにして女性社員にも恵まれた職場環境でしたが、しばらくすると女性社員がお二人とも退社してしまい、それから数年間、女性社員は私一人となりました。
 それでも変わらず人間関係に煩わされることなく、男性社員以上にハードに働く日々を送っておりましたが、やはり女性一人というのは流石に寂しいものがありました。

 そんなある日、会社の飲み会の時に他社の華やかでお洒落な女性の方たちが数名、参加されたときがありました。
 その方たちは、私たちのようなゲーム会社ではなく広報系の方たちだったと思います。ほとんど見た目に構うことすらなかった私などとは毛色が違うのは、一目瞭然でした。
 見目麗しい女性の方たちの登場で、多くの男性社員が色めき立ったのを覚えています。
 その頃すっかり男性社員に同化していた私は、やっぱり女性がいると空気が違うなぁ……と、思ったものです。
 そしてその飲み会の後、大阪支社トップだったお方に「やっぱり女性社員がいた方がいいか?」と問われた私は、「それはいた方がいいですよ~。華やぎますしねぇ」と返しました。
 すると飲み会の日から程なくして、再び女性社員が二名増えました。ありがたかったです。
 女性のみの閉じられた空間はしんどいですが、女性が一切いない環境も寂しいのです。バランスの問題です。
 女性にはもっと増えてほしかったのですが、やはり基本的にゲーム業界は男性の世界なのでしょうね。私が在籍中に、それ以上女性社員が増えることはありませんでした(ほんの一時期、派遣社員の女性はお一人いらっしゃいましたが)。

 今は乙女系ゲームが隆盛なので、ゲーム業界も女性が増えたのかもしれませんね。
 私が業界にいたころは乙女系はまだ出始めで、「アンジェリーク」と「遥かなる~」くらいしか記憶にありません。
 ゲーム業界の男女比率が相変わらずのままで、男性のみのチームが乙女系を量産しているのだとしたら……大変そうだなぁと思います。

……私が乙女系ゲームシナリオにチャレンジして玉砕したお話しは、またいずれさせていただきます。

3+

グラフィックツール仕様書

 ゲームを作るためには、まずツールから作らねばなりませんでした。
 私の入社当時はX68000というPCを使っていて、メダロット1までは別支社のプログラマーさんがX68000で作成された超優秀なグラフィックツールでドット絵を作成することができたのです。
 それはアニメ機能までついていたという優れモノで、メダロット1のドット絵から戦闘アニメまですべてこのツール一つで作成できました。

 X68000と言えば、記憶媒体がフロッピーディスクだった時代の中でも、5.25インチという大きなサイズ感が素敵なフロッピーディスクを使用するPCでした。
 その存在すら、ご存じない方のほうが多いのではないでしょうか。3.5インチフロッピーも見かけなくなりましたしね。

 ところがX68000がオフィスから消えて、専用のグラフィックツールがなくなってしまったのです。
 私はメダロット2でグラフィックから退いたのですが、後任のグラフィッカーさん用に、私がドット絵専用グラフィックツール仕様書を作るよう指示されました。
 やることを他に山ほど抱えていた私は正直、「エッ? 私が!?」と思いました。
 私自身はもうグラフィッカーの仕事をすることは基本的にありませんし、今後グラフィックツールを多用するグラフィッカーさんご自身が、仕様書を書かれた方がいいと思ったのです。
 それでも私だったのは、私がそれまでグラフィッカーとしてやってきており、かつ超優れものだったグラフィックツールの使用経験があったからだったのかもしれません。
 さらにグラフィッカーさんたちが別会社となったため、 (別料金が発生しない )社内の人間でかつグラフィッカーで、さらに最も絵を多く発注するであろうメダロットチームのメンバーで……と条件を絞っていくと、グラフィックツール仕様書作成者が私になったのも合点がいくような……。

 グラフィックツール仕様書作成も、困難を極めました。
 テトリスプラスGBの時もでしたが、仕様書を作っては担当のプログラマーさんに持っていく度、「ここが足りない!」「ここはどうなってるの!?」と仕様書を突き返される日々。
「書かなくても分かるだろう」は通じません。
「こんなことまで書かなければならないのか!」というレベルで、微に入り細に入り、あらゆる仕様を書き記さねば、 プログラマーさんに仕様書を受け取ってもらえませんでした。
 この辺りは、プログラマーさんにもよるでしょうけれども。
 ちなみにその時担当のプログラマーさんは、社内随一クラスの方でした。少しの仕様の抜けも許されなかったのは、有能な方だったからこそ、なのかもしれませんね。

 こうして何とか私は仕様書を書き上げ、超有能プログラマーさんの手によって無事にグラフィックツールが完成したのでした。
 そのグラフィックツールを私自身が使った記憶が無いので、使用感は不明だったりしますが、不満は特に耳に入ってこなかったので恐らく実用レベルではあったのでしょう。
……私が実情を知らなかっただけ、という可能性もありますが。

3+

ディレクター業について

 私はメダ3の前に、テトリスプラスGB移植の時にディレクターを一度経験していました。
 開発規模も小さく、また移植だったこともあり、ディレクター業の修行には最適でした。
 同じチームとなった上司のプログラマーさんから叱責を受ける日々でしたが、私はこの叱責を心からありがたいと思いました。
 企画書・仕様書の書き方、予算・スケジュール管理等々といったディレクター業というものを、私はテトリスプラスGB移植で学ぶことができたのです。
 そしてこのディレクター経験があったからこそ、メダ3で私に白羽の矢が立ってしまったとは言えます。

 ディレクター業を経験した上で、私がディレクター業に必要だと身に染みて思ったスキルは、

・リーダーシップ
・コミュニケーション能力
・プレゼン能力
・管理能力(スケジュール・予算・容量等々)
・仕事の采配力

……というものです。
 私には、どれも圧倒的に足りておりませんでした(今もですが)。
 私がどれくらい苦手だったかと申しますと、

・リーダーシップ
      →人に使われる方が気が楽
・ コミュニケーション能力
      →コミュ障気味
・プレゼン能力
      →人前で話すのは苦手
・管理能力(スケジュール・予算・容量等々)
      →いい加減適当大雑把人間
・仕事の采配力
      →マルチタスクは苦手

……という体たらくです。スキルをデータ化してお見せすることはできませんが、少なくとも私がディレクター業に向いていないことは火を見るより明らかです。
 さらにツリー構造の下から一段階アップしたことにより(偉くなったのではなく、あくまで役割的なモノです)、上の方と下の方のサンドイッチ状態になったことが地獄でした。

 しかし私がやらなければ、ゲームが完成しないのです。
 引継ぎの時間や余裕はありませんでした。何より、シナリオは私の脳内にしか無かったのです。
 基本的に人との争いを好まない私ですが、凄まじいデスマーチの連続で追い詰められ心身共に極限状態に陥り、また若さもあって上の方々に噛みついたこともありました(物理的にではありません)。
 悪くても首、死ぬわけじゃない。私が抜ければ、この子はどうなるんだ……と、まるで子を守る手負いの獣状態でした。
 私にとって最悪なことは首になることではなく、ゲームが完成せず日の目を見ない、またはゲームが未熟児の状態で世に出てしまうことでした。

 リーダー気質の持ち合わせなどなくコミュ障気味なのもあって、仕事を人に任せたり指示を出すことが苦痛で、常に抱える仕事は山のようでした。
 ですがゲーム開発はチームで行うので、最低限のコミュ力は必須です。会話による意思疎通や口頭での指示はどうしても必要で、「人見知り」などとは言っていられません。
 また、修羅場で追い詰められていたのは私だけではありません。心身ともに疲弊し気が立っている方々に指示を出し、時に感情をぶつけられるというのは、私にとってはかなり辛く厳しい体験ではありました。
 苦手なことだらけでしたが、苦手だからといってやらなければゲームが完成しませんでした。
 執念でやり遂げました。

 そんな訳でメダ3の時はディレクター業とシナリオ業その他色々という、二足の草鞋どころか何足草鞋を履いているのか分からないムカデの草鞋状態という狂気の沙汰でした。
 ですが「スタッフロールは一人一項目」というルールがあったので、メダ3のでの私の肩書はディレクターのみとなっております。
 私の肩書がシナリオになってしまうと、「一人一項目」のルールからディレクター不在となるため、メダ3ではディレクター表記なのでした。
 シナリオをやるためにディレクターを兼任していた私は、メダ3のスタッフロールの「ディレクター」という肩書に、少々複雑な感情もあります。
 その一方でディレクターの肩書は、「ディレクター業をもやり遂げた」という何よりの記念とも言えるのです。

4+

巨大な看板と城壁とバグとの死闘

 今はアップデートでバグの修正ができますが、昔はできませんでした。
 納品したロムに致命的なバグが見つかれば、回収騒ぎとなりヘタすれば会社が傾く大問題です。

 メダロットの時ではないですが、納品後に重大なバグが発見され、京都の任天堂様の工場に一人向かったことがありました。
 最寄り駅からすぐに任天堂様の看板は見えるのに、行けども行けども辿り着けません。
 駅から看板が見えていたのは工場が近かったからではなく、私が思っていたよりずっと看板が巨大だったからなのです。
 それでもやっとたどり着いたと思ったら、今度は長大な難攻不落の城壁に阻まれ、やはり行けども行けども入り口が見つかりません。

 徹夜明けの体力ゲージは残り少なく、疲弊しつつも何とか入り口までたどり着き、ロムを手渡し踵を返した時、工場の方に呼び止められました。
「帰り道は分かりますか?」
 極度の方向音痴の私は、その方のお言葉であることに気づきました。
 行きは巨大看板を目印に迷うことはありませんでしたが、帰りは目印の看板が無いのです。
 当然その時代、グーグルマップなんて便利なものは存在していませんでした。
「……分かりません」
 あの時親切な工場の方に手描きの地図をいただかなかったら、私は駅まで帰り着けなかったでしょう。

……こうして無事手渡した最終ロムであったはずのものは、更にバグが見つかり違う方の手で再び工場へと届けられたとか何とか。

 デバッグは背水の陣。
 致命的バグは死活問題。
 死力を尽くした作品が致命的バグ一つで死亡なんて、あってはならないことです。
 決死の覚悟でデバッグしていたものです。

 任天堂様の京都の宇治工場。温かな日差しに照らされ輝く水面の宇治川沿いを歩いた思い出。
 修羅場の徹夜明けという状況と、そののどかな光景が対照的で、深く印象に残っております。
……ちなみに会社の上司な方に言われていた、お土産の宇治抹茶は買っておりません。

3+